電話番号

■会社概要

商    号 株式会社 山口青旭堂
設   立 昭和33年7月4日
所 在 地 〒604-8832
京都市中京区壬生下溝町23-12
T E L 075-222-1171
F A X 075-874-5521
代 表 者 代表取締役社長 山口陽平
事業内容 明治時代より全国各地の観光出版物の企画・製造販売をしております。
主要製品として観光絵はがき・アートカード・和とじ本(昔話や教養本)、その他各地の観光オリジナル商品を手掛けております。また、京都限定キャラクター商品等の取り扱いもしており、お客様に喜んでいただける商品提供を心がけ、京都市内を中心に営業活動を行っております。

 

■地図

 

●山口青旭堂の略歴

江戸時代  後期 初代 山口定七が、綾小路麩屋町西入で銅彫刻の応用になる絵本・紙草紙を出版。
明治時代  中期 二代目 吉太郎が、小間紙類・絵葉書・絵葉書帳の製造を開始。後にコロタイプ印刷を応用した絵葉書などを製造販売。
大正時代  初期 三代目 雄太郎が、石版、銅版等を応用した写真帳・案内記・地図・鳥瞰図等の製作開始。
大正     9年 綾小路営業所に隣接する直営工場に次ぎ、新しく一條通新町西入に専属工場を設ける。
昭和33年  7月 株式会社山口青旭堂に法人組織化。
昭和43年   8月 四代目 宗祐が代表取締役社長に就任。
日本万国博覧会の記念はがきやカードなどを製造。
昭和47年  12月 押小路通富小路西入に社屋を移転。
平成24年  6月 五代目 陽平が代表取締役社長に就任。
令和4年        3月 壬生に移転

江戸時代より製墨業としてはじまる

弊社はもともと製墨業から始まっております。
江戸時代に屋号・墨屋吉兵衛と称し、綾小路麩屋町西入で版元として仕事に従事していたようですが、大変残念なことに弊社にはその作品が残っておりません。検索すると史料としてアーカイブされている作品を見ることができるようです。

江戸時代後期には、山口姓を名のり始めて五代目となる山口定七が、銅彫刻の応用になる絵本、紙草紙類の出版を開始。これが山口の美術印刷の始まりと言われており、弊社では定七を”初代”としておりますが、はっきりとした創業年は把握できておりません。

明治に入り、絵葉書製造に

明治時代に入り、二代目山口吉太郎が小間紙類、紙加工品(封筒、学校ノートブック等)の製造から発展し、絵葉書、絵葉書帳の製造を開始。
明治35年頃からは、コロタイプ印刷を応用した美人絵葉書や、この頃にはまだ珍しい絹房附のしおりを製造販売し始めております。
40年頃には、石版数度刷コロタイプ印刷による「孝明天皇四十周年御陵祭・英照皇太后十周年御陵記念絵葉書」を出版。また、各地の名所絵葉書の印刷も拡大させていきました。
吉太郎は、商売をする傍ら俳人としても活躍し、壮年時代の俳号【竹葉】の「その青に照る旭」から、現在の社名【青旭堂】を命名致しました。晩年は【嵐更】として俳人の人生を歩み、俳句宗匠・枯魚堂五世を襲いでおります。

大正、昭和。印刷技術・デザインの向上に注力

大正から昭和十年代には、若くして先代より家業を継いだ三代目山口雄太郎が、コロタイプ印刷、特に手刷印刷を主とした美術印刷製品を手掛けております。
その頃、青旭堂の図案部には絵葉書の意匠、浮世絵様作品のうち、高松英信氏が歴史物、鍋島香陽氏が俯瞰図、そして高橋春佳氏が装丁・図案・クリスマスカードなどを担当しておりました。英信氏の描いた舞妓さんの図案や春佳氏の描くモダンなデザイン画の多くは、アメリカのボストン美術館にも所蔵されているそうです。

昭和33年7月4日株式会社山口青旭堂と法人組織に変更。
昭和43年8月四代目山口宗祐が代表取締役に就任し、昭和47年に会社を現在の押小路通富小路西入に移転しました。東京オリンピックや日本万国博覧会など日本が元気だった時代に、代々継承されてきた全国各地の観光絵はがきにとどまらず、あぶらとり紙や和とじ教養本等の販売もしてまいりました。

近年は、各地の観光オリジナル商品や京都限定の観光土産品の販売にも力を注いでおり、平成24年6月より五代目山口陽平が引き継いでおります。

*参考文献:大正14年10月1日発行「絵画絵葉書類品付属品美術印刷製品仕入大観」

 

■会社概要

商    号 株式会社 山口青旭堂
設   立 昭和33年7月4日
所 在 地 〒604-8832
京都市中京区壬生下溝町23-12
T E L 075-222-1171
F A X 075-874-5521
代 表 者 代表取締役社長 山口陽平
事業内容 明治時代より全国各地の観光出版物の企画・製造販売をしております。
主要製品として観光絵はがき・アートカード・和とじ本(昔話や教養本)、その他各地の観光オリジナル商品を手掛けております。また、京都限定キャラクター商品等の取り扱いもしており、お客様に喜んでいただける商品提供を心がけ、京都市内を中心に営業活動を行っております。

 

■地図

 

●山口青旭堂の略歴

江戸時代  後期 初代 山口定七が、綾小路麩屋町西入で銅彫刻の応用になる絵本・紙草紙を出版。
明治時代  中期 二代目 吉太郎が、小間紙類・絵葉書・絵葉書帳の製造を開始。後にコロタイプ印刷を応用した絵葉書などを製造販売。
大正時代  初期 三代目 雄太郎が、石版、銅版等を応用した写真帳・案内記・地図・鳥瞰図等の製作開始。
大正     9年 綾小路営業所に隣接する直営工場に次ぎ、新しく一條通新町西入に専属工場を設ける。
昭和33年  7月 株式会社山口青旭堂に法人組織化。
昭和43年   8月 四代目 宗祐が代表取締役社長に就任。
日本万国博覧会の記念はがきやカードなどを製造。
昭和47年  12月 押小路通富小路西入に社屋を移転。
平成24年  6月 五代目 陽平が代表取締役社長に就任。
令和 4年  3月 壬生に移転

江戸時代より製墨業としてはじまる

弊社はもともと製墨業から始まっております。
江戸時代に屋号・墨屋吉兵衛と称し、綾小路麩屋町西入で版元として仕事に従事していたようですが、大変残念なことに弊社にはその作品が残っておりません。検索すると史料としてアーカイブされている作品を見ることができるようです。

江戸時代後期には、山口姓を名のり始めて五代目となる山口定七が、銅彫刻の応用になる絵本、紙草紙類の出版を開始。これが山口の美術印刷の始まりと言われており、弊社では定七を”初代”としておりますが、はっきりとした創業年は把握できておりません。

 

明治に入り、絵葉書製造に

明治時代に入り、二代目山口吉太郎が小間紙類、紙加工品(封筒、学校ノートブック等)の製造から発展し、絵葉書、絵葉書帳の製造を開始。
明治35年頃からは、コロタイプ印刷を応用した美人絵葉書や、この頃にはまだ珍しい絹房附のしおりを製造販売し始めております。
40年頃には、石版数度刷コロタイプ印刷による「孝明天皇四十周年御陵祭・英照皇太后十周年御陵記念絵葉書」を出版。また、各地の名所絵葉書の印刷も拡大させていきました。
吉太郎は、商売をする傍ら俳人としても活躍し、壮年時代の俳号【竹葉】の「その青に照る旭」から、現在の社名【青旭堂】を命名致しました。晩年は【嵐更】として俳人の人生を歩み、俳句宗匠・枯魚堂五世を襲いでおります。

大正、昭和。印刷技術・デザインの向上に注力

大正から昭和十年代には、若くして先代より家業を継いだ三代目山口雄太郎が、コロタイプ印刷、特に手刷印刷を主とした美術印刷製品を手掛けております。
その頃、青旭堂の図案部には絵葉書の意匠、浮世絵様作品のうち、高松英信氏が歴史物、鍋島香陽氏が俯瞰図、そして高橋春佳氏が装丁・図案・クリスマスカードなどを担当しておりました。英信氏の描いた舞妓さんの図案や春佳氏の描くモダンなデザイン画の多くは、アメリカのボストン美術館にも所蔵されているそうです。
昭和33年7月4日株式会社山口青旭堂と法人組織に変更。
昭和43年8月四代目山口宗祐が代表取締役に就任し、昭和47年に会社を現在の押小路通富小路西入に移転しました。東京オリンピックや日本万国博覧会など日本が元気だった時代に、代々継承されてきた全国各地の観光絵はがきにとどまらず、あぶらとり紙や和とじ教養本等の販売もしてまいりました。

近年は、各地の観光オリジナル商品や京都限定の観光土産品の販売にも力を注いでおり、平成24年6月より五代目山口陽平が引き継いでおります。

 

*参考文献:大正14年10月1日発行「絵画絵葉書類品付属品美術印刷製品仕入大観」